<これは最後ではない>ドラギ総裁は念を押しました。6月5日、ECBはマイナス金利を含む包括的な金融緩和策を発表したのです。それによると政策金利はわずか0.1%の引き下げ、というのも政策金利は既に0.25%ですからもう下げ余地がないからです。更に域内の企業に貸出を促す狙いで総額4000億ユーロ(約56兆円)に及ぶ長期の資金の供給、そして主要中央銀行としては初の試みとなる、マイナス金利の導入です。これによってユーロ圏域内の銀行はECBに資金を預けていては金利を取られることとなったのです。ECBとしては何とか域内の経済活性化のために銀行による積極的な資金供給を促したいという苦肉の策でした。

マイナス金利の影響

 マイナス金利の導入は噂されていたものの、主要中銀としては初めての試みとなりますので、その効果がどうでるのか、興味深いところです。しかし大方の見方としてマイナス金利を導入したからといって、域内の銀行が融資に前向きになるとは思われていないのです。自分のこととして考えればわかりますが、いくらお金があったにしても危ないところにお金を貸すわけにはいかないでしょう。勢い、お金は安全を求めてより確実に金利が取れそうなところに資金が流れていくのは当然なのです。実際、マイナス金利導入後ユーロ圏で起こってきたことはまさに資金の安全資産への逃避だったのです。域内の国債、特に短期で償還になる年限の短い国債を購入しようとする怒涛の資金の流れが起きたのでした。ドイツやフランス、イタリアやスペインの2年債は利回りが1か月前と比べて一気に半分にまで低下(価格高騰)したのです。

それでも国債購入の勢いが止まることはありませんでした。長期償還の国債にまで資金の流れは波及してきたのです。こうしてスペイン国債やイタリア国債の10年物は史上最低水準の金利(価格最高値)まで下がりました。スペインの10年物国債に至っては6月9日、金利は2.58%となり、ついに米国債10年物の2.6%も下回ったのです。経済が好調で信頼感のある米国の国債よりも失業率25%を超えて先行き懸念されているスペインの国債の方が利回りが低いとは異常事態の出現です。金利はいわば信頼の証です、米国債よりもスペイン国債の方が信頼がおけるというのでしょうか。

経済の体温と言われる物価が上がらない

 ECBも悶え苦しんでいます。ユーロ圏の景気は底を打って回復基調とはいえ、その速度は極めてのろく、まるで日本の20年に渡るデフレと同じ道のりを歩むかのような様相なのです。とにかく経済の体温と言われる物価が上がりません。失業者が溢れているわけですから、域内全体の購買力もありません。必然的に賃金も上がらないでしょうからここ数年のユーロ高と相まって物価が上がらないのも当然です。特に南欧では酷く、ギリシアやキプロス、スロバキアやポルトガルでは4月の物価上昇率はマイナスとなりました。好調と言われるドイツでさえ0.6%の上昇でしかありません。ユーロ圏の物価上昇の目標値は2%ですが、そんな目標は遥か彼方です。ユーロ圏全体の物価上昇率をみても2011年暮れの3%から低下傾向で今では8ヶ月連続で1%割れ、5月はわずか0.5%の上昇です。2010年にはギリシアの破たん懸念からユーロ崩壊か、と噂されたのですが、その危機を乗り越えたとはいえ、危機から5年近く経過するのに一向に景気が盛り上がってこないのです。底を打ったとは言え成長率はほぼゼロ、失業率の記録的な高さは米国や日本と比べては突出して高い状態が続いています。

 域内の不満も頂点に達しようとしています。5月下旬に行われた欧州議会選挙では、反EUの波が吹き荒れました。英国、フランス、ギリシアなどで左右両極の反EU政党が大量に議席を伸ばしたのです。如何にユーロ圏の人々が自分たちの置かれた状況に不満を抱いているのかわかります。もちろん彼らの不満は一向に上向かない経済状況とそれに伴う深刻な失業問題、そしてそれらの不満は各国の移民政策や緊縮財政に向かい、ついにはユーロ圏の統合という根本的な理念の否定にまで発展しつつあるのです。

 とにかくかような状況を打破するのは経済の回復を急ぐしかないのですが、その決め手がないのがECBの苦しい胸の内なのです。まず取り組みたいのはユーロ高の是正です。通貨が高いのですから物価が上昇する道理がありません。ユーロ高がインフレ率を低下させ、ユーロ圏の企業の輸出競争力をそぎ業績に悪影響を与えているのは明らかです。1-3月期の欧州主要600社の1株当たりの利益は2%増にとどまりました。4月上旬の予想では5%程度の増益予想だったのですが、回復の度合いは市場の予想を下回ったのです。売上が伸びてこないのです。600社の1-3月期の売上高は1.8%の減少です。売上高が落ちていては儲けられるわけはありません、明らかに各企業にユーロ高の影響が出ているのです。

響くユーロ高の影響

主要通貨、ドル、ユーロ、円とありますが、通貨安競争という面から考えますとユーロはどうしても分が悪いのです。通貨安に誘導するための政策的な切り札、<量的緩和政策>を取れないからです。通貨も発行量を増やせば、当然通貨価値が減価して通貨安に誘導することができるわけです。その場合、最も効果的で手っ取り早いのが量的緩和政策です。直接的に自国の国債をその国の中央銀行が紙幣を印刷することによって購入しますので、あっという間にその紙幣の発行量が増えます。今の日本がいい例です。毎月7兆円ずつ日銀が円紙幣を印刷して日本国債を購入していますので、確実に円の発行量が増加しています。米国も量的緩和政策終了に向かっているとはいえ、まだその最中にありますので毎月今でも3兆円近い金額のドルを発行して米国債を購入しています、秋に終わる予定ですが、そのばら撒かれた資金をいつ回収するのか定かではありません。今回ECBは金利引き下げと長期資金の供給、並びにマイナス金利適用を決めたものの、この政策が量的緩和政策のように即座にユーロ紙幣の発行量を劇的に増やすものでもありません。そうなると今回の政策だけでユーロ高の傾向が止められるのか、という懸念が市場にあるわけです。

ユーロ相場を対円で見てもギリシア危機当時は1ユーロ、100円割れにまでなっていましたが、今では138円近辺です。よりグローバルな見地からユーロを対ドルでみてもユーロは2011年10月以来のドルに対して1ユーロ、1.4ドル程度の高値近辺となっています。まずはこのユーロ高の状況を止めたいのがECBの本音と思いますが、日米のような量的緩和という劇的なマネー供給策を使ってこなかったつけが回っていることは確かです。

<これで最後ではない>とドラギ総裁が記者会見で凄んでみせたのも、ECBにはこの量的緩和という最後の手段を取る用意がある、というところを見せて市場にユーロの先安感を抱かせたいという思惑なのです。かつてドラギ総裁は<ユーロを守るためなら何でも行う>と宣言しました。その発言を契機として投機筋は域内の国債の売り仕掛けをストップ、ユーロ危機が収まったという経緯があります。今回も同じでドラギ総裁が市場に強い覚悟をみせることで、何とかユーロ高を止めてやろうとしているわけです。

ECBのクーレ理事は<ユーロ圏の政策金利は長期に渡って低金利にとどまる>と述べました。これはECB関係者が今回のユーロ圏における低インフレ傾向は簡単に収まるものではないことを意識していることを示しています。ドラギ総裁が凄んでみたものの今後この発言と今回のマイナス金利導入によってユーロ高が収まるのかどうか、市場関係者の意見は分かれるところでしょう。実は今回は口先介入だけではユーロ高の傾向を止めることはできず、今後ECBは量的緩和に追い込まれていくという見方が大勢です。先にスペイン国債やイタリア国債など域内の国債が買われてきていることを指摘しましたが、その背景の一つはいずれECBは量的緩和政策に追い込まれ、域内の国債を購入することになるという見方が根強く底流にあるわけです。ないしはもうECBの持つカードは量的緩和しかなく、この最後のカードを時間の問題で使うしかないという判断なのです。

続くECBの苦悩

ところがこの量的緩和政策がユーロ圏では難しいわけです。これは常に指摘されていることですが、ユーロ圏は18ヶ国ありますので、どの国の国債をどのくらい買うのかという問題があります。日本や米国のように自国の国債を購入するだけとは違うわけです。

またそれなれば域内の国債を発行額に比例して買えばいいという意見もあるのですが、実はこれも難しいのです。一見するとユーロ圏各国の国債の発行額に応じて比例して万遍なく購入というのは道理に合うような気がします。ところがここにも大きな問題があります。一般的に考えればユーロ圏域内で国債の発行量が最も大きい国は域内で最大の経済力を持つドイツだと思うわけです。ところがユーロ圏内で大量の国債発行を行っているのはイタリアであり、次いでフランスなのです。こうなると発行額に比例して域内の国債を購入するという措置を取れば、結果的に財政赤字を増やして国債をできるだけ発行した国が有利になってしまいます。これこそまさに財政赤字の補てんであり、財政ファイナンスへの応援となるのです。これはECBやドイツが最も嫌うことなのです。

かようにECBによる量的緩和政策はかなり高いハードルがあるのです。しかし市場は今回のマイナス金利にまで踏み込んだ対応をみてECBの政策的な手段が尽きていることを見透かしています。もう一回ユーロ高に誘導されれば、否応なくECBは量的緩和に打ってでるに違いないと思われているのです。ドラギ総裁は<これが最後ではない>と凄んでみたものの、市場を説き伏せられるかどうか、全く予断を許しません。ECBの苦悩は続くのです。