いきなりの中国政府による人民元の切り下げに世界の市場は衝撃を受けました。欧米始めアジア、日本も含めて株式市場が波乱、更に商品市場も急落、新興国の為替市場も続々と安値更新となったのです。何しろ世界第二位で大きな影響力を持つ中国の通貨、元をいきなり予告もなく切り下げると発表したわけですから市場が不意を突かれたのも当然です。中国人民銀行は3日間に渡って元相場を連日安値に誘導、初日は1.8%、翌日は1.6%、そして3日目は1.1%と3日間合計であっという間に4.5%の元切り下げが実行されたのです。

 アジア諸国や資源国、新興国をはじめとして中国に経済を大きく依存する国は当然、大きな衝撃を受け、通貨や株価の下げは一段と激しいものとなったのです。

実勢価格に近づける為の切り下げ

 中国側は今回の元切り下げについては<市場実勢に近づかせるための手段>として今までと違って元相場の実勢を市場の真の動向に合わせていくのが主因だと説明していますが、それを真に受けて信じる向きはありません、たとえ中国側の説明が一理あったとしても、何故このようなタイミングで、世界の市場を驚愕させるような乱暴な手法を取ったのか、やはり中国側に切羽詰ったお家の事情があったに違いないとみているのです。

 皮肉なことですが、今回の元の切り下げについては、IMFは評価しているのです。今回の措置によって切り下がった元相場はより市場実勢に近づいたというわけで、今度のIMFの通貨SDRに中国の元の比率を高めるための一つの改革になったとのスタンスです。また米国側も今回の中国の元切り下げについては一定の理解を示しています。中国の実体経済が急速に悪化しているのであれば元がそれに合った実勢値に値段が近づいていくのはやむを得ないという今回の元切り下げを許容する態度です。

 IMFのコメントや米国政府の許容発言を得て、中国当局は13日、元相場が3日間に渡って4.5%切り下がった後で<今回の元安誘導は基本的に終了した>とコメントしました。いきなりの元の切り下げに大きく翻弄された世界の資本市場ですが、実質的には急速に沈静化に向かうと思われます。

 しかしながら今回の元の切り下げの持つ、歴史的な意味とその真の背景、並びに今後の展開を掘り下げておく必要があるでしょう。

強権政治の反動を怖れる当局

 まずは今回の乱暴な対応には中国側の極めて厳しい国内経済における現状認識があったと思われます。10年前、中国政府が通貨のバスケット制導入と元相場の2%切り上げを行ったとき中国政府は夜の発表で市場に配慮していました。しかも元切り上げについては用意周到に前もって準備して市場に混乱を起こすことなくやり遂げたのです。当時は温家宝首相が元相場の切り上げについて前もってアナウンスしていました、市場に十分な準備期間を与えてから元の切り上げを実行に移したのです。

ところが今回は如何にも唐突です。やはり最近の中国当局の経済政策における焦りがあるとしか思えません。場当たり的な政策を連発している印象です。特に6月末の株式の暴落から始まった中国経済の混乱は中国当局の想像を超える展開であって、中国当局としては何としても混乱なくことを収めたいという思惑の下で様々な手段を有して株式市場の暴落に対応しようとしてきたわけです。しかしどれもこれも上手くいかず、非常手段として売り物を止めたり、市場を閉鎖したり、挙句の果ては市場の一部の観測で100兆円近い資金を投入して株式市場を買い支えて株価の暴落を止めたと言われています。まさに一連の策は日米欧などの先進国では考えられないような市場を無視した無謀な対応策だったのです。こんなことをしても実体経済は良くなるはずもなく、経済の悪化は激しくなっていく一方でした。

 焦る中国政府が繰り出してきたのが今回の突如の元の切り下げと思われます。中国当局にはもはや、他国への影響は如何なるものか、とか市場を混乱させることで、中国当局が世界的な非難を受ける可能性があるなどという回りに配慮するような余裕は全くなかったものと考えられます。本来9月に習近平主席の米国訪問を控えているわけですから、その訪問を間近に控えたこの時期に、米国が最も嫌う為替介入を堂々と行うことは避けたいと考えるのが当然です。それでも元切り下げを強行した背景には経済の悪化が急激で対処せざるを得なかったという事情があるわけです。

 習政権はここまで国内ではかなり強権的な手法で政敵を打破してきました。中央委員経験者には絶対手を出さないと言われてきた、不文律を破って共産党のかつての大物を腐敗打破の名目で次々に逮捕、失脚させていきました。権力の基盤を固めて習政権は習近平主席一人に権力が集中する形になりつつあったのです、まさに独裁体制が確立しつつあったわけです。そこでは党内の激しい反発や権力闘争があったことは間違いないでしょう。これらの闘争における激しい反発から、習近平は自らの身も危険に晒される可能性がある、との懸念から身辺の警護が異常なほど厳重になっていたことは報道されていました。その中で習政権は着々と権力基盤を盤石なものに確率しつつあったわけですが、仮に今回の経済失速の流れが激しくなって国内の不満分子が拡大していった場合は、今までの強権政治の反動が引き起こされて、習政権に対しての不満が爆発する可能性も否定できません。そのような激しい権力闘争を行ってきた後での、経済の異常な落ち込みなど許容できるはずがないのです。ですから今回、習政権の最も主要な命題は経済の回復、混乱の回避であることは当然のことなのです。なりふり構わぬ元のいきなりの切り下げも中国国内における事情も背景にあることは疑いありません。

7月に入って落ち込みが加速した経済

 しかし反面、このような切羽詰った状況で何とか経済の失速を回避しようと試みても、経済は生き物ですし、ましてや中国共産党が行ってきた社会主義市場経済がその矛盾に押しつぶされようとしている局面なので実は、様々な手段を講じても実際は矛盾が拡大傾向になっていくだけで実体経済は良くなるどころか更に悪くなっていく可能性の方が高いのです。

 当局は株式市場の強引な買い支えで何とか深刻な問題に蓋をしようと試みていますが、株暴落の影響があっという間に実体経済に波及してきたことは明らかなのです。中国の7月の経済統計の落ち込みは驚くほどになってしまったのです。例えば7月の自動車販売ですが、新車販売は前年同月比7.1%減と急降下、4か月連続のマイナスでマイナス幅も4月の0.5%減、5月の0.4%減、6月の2.3%減から急拡大、リーマンショック時以来の落ち込みとなりました。株安が影響していることは疑いありません。実は販売だけでなく生産の落ち込みも酷いのです。このような自動車販売の急減速を受けて7月の自動車生産は11.2%減、何と乗用車に至っては26.3%減です。鉄鋼の生産も落ちてきました。7月の鋼材の1日あたりの生産量は前年同月比1.9%減、6月の1.3%増からついにマイナスへ転落したのです。工業生産全般を計る発電量をみると7月の発電量は6月に比べて2%減となり生産は確実に落ちつつあるのです。輸出も酷い状況となっています。7月の輸出額は前年同月比で8%減少と全く上向く気配がありません。全国各地に人の住まないマンションや道路が乱立していることは以前から指摘してきましたが、不動産も大都市はまだ需要があったのです。ところが現在では内陸部中心に状況が激変です。内陸部の大都市、重慶では高級オフィスの空室率が急上昇、ついに空室率が50%に迫っています。このような個別的な例の続出だけでなくトレンドも完全に下降です。企業間の取引を示す企業物価指数は7月、前年同月比で5.4%の下落となったのです。企業物価指数の下落は3年以上に及んでいます、しかも7月は2009年以来の大きな落ち込みとなってきたのです。かように7月に入ってからの中国経済の落ち込みは加速がついてきたのです。これでは当局が焦って元引き下げを急いで輸出振興策に打ってでるのもやむを得ないことかもしれません。

切り下げの効果は?

 しかし極めて皮肉なのですが、こんなに輸出が落ちているのに、中国の貿易黒字は急速に拡大しているのです。輸出が伸びても商品価格が下がり、輸出額以上に輸入額の伸びが更に落ち込んでいるからです。中国の1-7月の貿易黒字額は約38兆円という膨大な額に達して昨年同期比で倍化しました。このような膨大な貿易黒字国が自国の通貨を他国の事情を無視して切り下げるのですから世界に影響がないわけがありません。

 しかし更に根本的な問題は、このような場当たり的な政策を連発しても中国の実体経済は良くなるはずがないという冷然たる事実です。今回中国は元を切り下げて輸出を拡大して生産を活発化させ、経済の活性化しようとしているのでしょうが、そんな目論見は実現できないでしょう。今回3日間で中国は元相場を4.5%切り下げて、人民銀行は<元高の是正は終了>としています。実際、円相場に例えて考えてみるとわかりやすいいですが、元の切り下げに世界中は驚いていますが、今回の切り下げはわずか4.5%に過ぎません。4.5%の切り下げと言えば、ドル円に換算すれば現在の124円の円相場が129円になったに過ぎない変動幅なのです。この程度の通貨の変動で貿易収支に劇的な変化が生じると思いますか? あり得ないでしょう。日本はアベノミクスが始まって円相場が80円から120円まで約50%下げましたがしばらくの間は輸出が拡大しませんでした。現在やっと輸出が拡大してきたのですが、それは円相場が120円以上の円安が定着してきたという見方が一般的になってきてからなのです。中国が4.5%程度、日本円で言えば5円程度の通貨安が起こったとしても、経済環境にほぼ何の影響も起きないことでしょう。中国はなりふり構わず元の切り下げを行いましたが現状ではその効果はほとんどないと言っていいのです。

通貨リンクの矛盾が引き起こす危機

 では次に中国は何を仕掛けるのでしょうか? これが難しいところです。というか中国の経済政策は完全な袋小路に入ってしまったようです。今後政策対応に苦慮し続けるしかないと思われます。一般的に考えれば元を更に安くすることによって日本のように通貨安から経済を潤すように誘導する手段を使ってくると思われるところですが、実は中国の場合はそうできない事情があるのです。

 それは中国の民間企業が膨大なドル建ての借金を抱えているからです。大和証券キャピタルマーケット香港のエコノミストによると、中国企業のドル建て債務総額は3兆ドル、日本円にして約370兆円にも上る可能性があるというのです。これでは元安になってしまっては中国企業のドル建て債務が怒涛のように拡大して返済不能に陥ってしまいます。特に不動産関連企業のドル建て債務が大きいと言われています。不動産価格は下がる、元が下がってドル建ての債務が膨らむ展開となっては救いようがありません。

 だから中国当局も際限のない元安誘導はできません、輸出は伸ばしたいがもはや元相場をドルに対して大きく安く誘導する政策も危険極まりないのです。ところが中国のようにドルとのペッグ制、いわゆる自国通貨をドルにリンクさせる政策を取っていた国が一たび、その政策を放棄するようになると、止らない自国の通貨安に陥っていくことがほとんどなのです、ドルとリンクすることに矛盾が広がってその矛盾が覆い隠せなくなるからです。

 かつて欧州では域内の統合に向けた欧州通貨制度(ERM)を実施、実質的に域内の通貨の変動幅を一定水準に抑えてきたのです。当時ドイツマルクに実質リンクしていた英国ポンドは1992年ジョージ・ソロスなどヘッジファンドによる売り崩しでポンド相場は大崩れしてしまったのです。1998年当時のアジア危機ではアジア各国の通貨はほとんど暴落の憂き目にあったのです。ドルとのペッグ制が崩壊した直後でした。今回中国人民銀行は自ら進んで元相場の切り下げ、ドルに対しての下落に誘導しました。それは9月にも金利引き上げが噂される米国のドルと元の相場が一緒のレートでいることに無理があると判断したからでしょう。米国の経済は順調に拡大基調、対照的に中国経済は今後大きく減速の可能性が高い、これらの事実を突き合わせればドルと元がリンクしていることに無理が生じているのは自明の理です。

歴史的な転換点となるか?

 元を安く誘導するのも元がドルにリンクさせておくことに無理が生じてきたこともあるわけです。今まで中国は国力の拡大からドルを買って元を売るという為替介入を繰り返してきました、しかし状況が変わり、今度はドルを売って元を購入するという為替介入を迫られています。元売り介入なら元を無限に印刷できる中国当局にとって可能なことですが、逆にドル売り元買い介入は難しいし、限界があるのです。

 中国政府の公式国際収支統計によると、今年上半期の中国からの資本流出額は1620億ドル(約20兆円)に上っているのです。明らかに中国から資本逃避が始まっています。しかもこれは中国の統計で実際はその数字以上、相当な額の資本流出が起こっているという見方が強いのです。このような状態で自国通貨を切り下げるのは危険な意味合いもあります。だから人民銀行は今回の一連の元の切り下げ誘導の中でも<元が著しく下落することはない>と強調して元安に歯止めをかけようとしてきました。中国の豊富な外貨準備高と健全な財政状況に目を向けるべきだと述べています。一見元切り下げ方針と矛盾するような公式見解ですが、中国当局が元切り下げの実行と同時に元の際限のない下落を恐れていることが伺えます。これは中国の真の経済状況が相当深刻なので恐れていることと思えるのです。

 今回中国は自ら望んで元相場を切り下げました。しかしこのことは歴史的な転機になると思われます。20年以上に渡って上昇し続けた元相場の歴史的な、今度は下落基調への変化です。今後中国の国力低下、経済の予想以上の悪化によって元相場の本格的な下落が始まるように思えます。中国当局にとってコントロールできた株式市場もコントロールできると思えた元相場も大きく目論見が変わっていくように思えます。国力が拡大しているうちは何でも思い通りになってきた当局による市場の巧みなコントロールが国力の衰退する中で歯車が狂ってくるように思えます。当局が望んだ元相場の切り下げがきっかけになって、今度は望まない元相場の下落にまで拡大してく可能性が出てくると思えます。順調にきた中国の国家運営ですが、今、国家資本主義の矛盾と限界が明らかになっていくステージが始まってきたようです。