<グローバリゼーションとテクノロジーの進展が賃金上昇を世界的に抑制しており、それがインフレに下降圧力を加えている>国際決済銀行(BIS)の年次報告書は賃金の上昇率が下がりインフレ率が上がらないことが世界的な傾向になってきたと指摘しています。この賃金が上がらない、インフレ率が上がらないという問題は既に日本だけの問題でなく、世界的な傾向として現在、世界の主要経済調査機関や中央銀行を通じて様々な議論が展開されています。まさに低成長が当たり前のような、<世界の日本化>が進展しているかのようです。何故、賃金の上昇率がこれほど低いのでしょうか? またそれがどうして世界的な傾向となってきたのでしょうか? 日本はこのまま低賃金、低成長が続くのでしょうか?

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失業率の低下については明らかに世界中で顕著なのですが・・・

 中央銀行は何処の国でも失業率を気にします。本来失業率が低くなれば当然人手不足から賃金の上昇が起こってくるわけで、それが全般的な賃金の上昇、ひいては労働者の収入の増加、そして全般的な物価の上昇と好循環に繋がっていくはずだからです。この失業率の低下については明らかに世界中で顕著なのですが、何故かそれが賃金の上昇に結び付いていきません。この<賃金が上がらない>という事についてはBISの主張するようにグローバル化、テクノロジーの進展のみならず様々な構造的な要因があると思われます。

 まずITやAIなどテクノロジーの著しい発展があります。ITやAIを使うことによって中間所得層の労働が機械に代替されるようになってきているのです。この結果中間所得層が従来の職を失い低所得に落ちていく傾向がみられます。こうして今までの労働者が少数の高所得者と多数の低所得者への二極化が起こっているのですが、相対的に低所得に落ちてしまう層の方が多いために統計としてみると賃金が低下しているということになります。産業においてもITを駆使したアマゾンやフェイスブックなどの世界を牛耳るIT企業が株価の上昇率でも時価総額でも他の業種を圧倒、産業界に革命的な変化をもたらしています。米国では老舗企業がアマゾンの圧倒的な販売力に押され、従来の小売業が苦境に陥っています。米国ではショッピングモールの閉鎖が相次いでいて今年の閉鎖数は全米で8000店に達するという記録的な閉鎖となっていきそうです。クレディ・スイスでは<今後5年で米国では最大4分の1のモールが消える>と予想しています。まさにネット企業がリアル企業を飲み込んでいくわけですが、この間、労働者の多くを雇用する小売業の苦境ということで、小売業で働く労働者の賃金の上昇率が抑えられるという現実に直面しています。因みに小売業の大手であるウォルマートは230万人雇用していますが、現在話題の世界を席巻しているIT企業5社、アップル、グーグル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフトの雇用者数は5社合わせても世界中で66万人に過ぎないのです。これでは雇用を多く収容するリアル企業が不振ということで、雇用される労働者の賃金が思うように上昇しないのも当然でしょう。

またIT化の波は金融業界も襲っています。スマホによる資金決済が爆発的な拡大することによって中国での銀行業務においては多くの行員が不要となってきています。昨年中国の4大銀行では社員数を約2万人削減しています。これは今後の金融業界の世界の動向を占うものでもあるでしょうが、金融業界においても人員削減の波は止まらないでしょう。米シティバンクのレポートによれば、銀行業界の正社員数は2025年までに米国で40%、欧州で45%減少すると言うのです。日本も例外とはなりません。まさにスマホ決済の嵐、テクノロジーと金融の融合である、<フィンテックの波>が金融業界を襲ってくるのはこれからです。かような情勢の中では金融業界でも大きな賃上げは望めないところです。

<クラウドワーカー>が交渉力を低下させている?

 また産業構造の変化によって働き方が世界的に大きく変わってきている傾向もあります。いわゆる自由な働き方、言葉を変えれば自営業者の拡大です。ネットの爆発的な普及によってネットによって仕事を請け負う<クラウドワーカー>が爆発的に増えているのです。この<クラウドワーカー>は時間に拘束されることなく自由にやりたいときに仕事を行えるわけです。多様化する現在にマッチした働き方でもあります。日本でも<クラウドワーカー>が2016年末で300万人を超えました。米国では5500万人、労働人口の35%にも上ると言うのです。かような働き方になりますと、やはり企業側の力が強く、労働者がまとまって交渉するということもないので、余計に報酬アップの交渉力が落ちるわけです。かような働き方は現代風の働き方ではあるのですが、却って報酬を引き上げるという意味ではマイナス効果となっています。

 かつては日本でも労働運動が盛んで労働組合やストなどが当たり前で年中行事のこともありました。バブル期以前ではありますが、かつては現在のJRは国鉄といって、労働組合の力が異様に強く、毎年ストを繰り返し、春闘において大きな賃上げを勝ち取ってきていました。当時は毎年賃金が上昇することも、労働者がストを行うことも慣例となっていて常識的なことだったわけです。これがバブル崩壊後、更に労働者の力が相対的に落ちてきて、また日本も失われた20年ということで経済の成長力が弱まって、とても賃上げ運動どころではなくなってきました。知らず知らずのうちに労働組合の力も落ちてきて、結果、労働者がまとまらずに交渉力が著しく落ちるようになりました。労働者側も低成長の現実を直視して賃上げよりは雇用の確保に力を入れるようになり、結果的に定期的な賃上げはできなくなりました。アベノミクスで日本経済が息を吹き返し、最近になってやっと定期的な賃上げ傾向が常態化してきたのが日本の実体です。

 また日本では人口減少という特殊事情もあります。団塊の世代が65歳以上となり一斉に退職した形となって高賃金の労働者が大きく減少しました。日本では生産年齢人口(15歳から64歳)の減少が大きく、若い人の雇用が増えません。その関係で高賃金の団塊の世代が退職して相対的に支払いの賃金は日本全体の総額としてみると減少する傾向となりました。これが統計上の賃金低下をもたらしています。

賃金の<下方硬直性>ならぬ<上方硬直性>とは?

 また更に大きな問題として賃金の<下方硬直性>ならぬ<上方硬直性>が起こってきているのです。普通経済学では賃金が不況になって下がっていってもある限度までくるとそれ以上は下がらない、という下限に達するということで、賃金の<下方硬直性>があると言われてきました。ところがそれはいわば経済成長が続いている間の理論であって、現在のように低成長が当たり前となった時代には即していない考えのようです。現在は低成長時代を睨んで賃金の<上方硬直性>の時代が始まっているようです。この<上方硬直性>とは何か? と言いますと、まさに<下方硬直性>の逆の現象です。経営者は一度賃上げをすると、何があっても賃金は下げづらいものです。名目賃金を下げるようなことを行えば、当然労働者のマインドは大きく悪化します。例え自社の業績が振るわなかったとしても、そこを耐えて従業員に支払う報酬は少なくとも下げずに据え置くという判断をするものです。経営者としては解雇や賃下げは最後の手段であってよほどのことがない限り行いたくないわけです。ところがこのトラウマが今度は好況になっても、賃金を引き上げることをためらわせることとなるわけです。というのも一度上げた賃金に関しては将来とても下げられない、何があっても基本的に下げるべきではない、となると現在が好調な業績であっても現在のように先行き不透明で何があるか読めない時代においては安易に賃上げを行っては、その後賃下げは実行できないわけですから、簡単に賃金を上げてはならない、というわけです。このような経営者の心理が賃上げを極端に遅らせ、賃金を上げない<上方硬直性>となって現れてきているわけです。まさに昔の経済学と違って新しい、従来の経済学とは逆の形が出てきているわけです。これも世界的な傾向とも思われます。ましてや解雇や賃下げを極端に嫌う日本の経営者にとってはこの賃金の<上方硬直性>は当たり前の手段のようになってきています。業績が良ければ賃上げでなくボーナスで報いるというは日本では当たり前の手法です。

 かように賃上げが起こりにくい傾向が日本、そして世界においても顕著になってきているわけです。

 かような情勢下、本格的な賃金の上昇は永遠にやってこないのでしょうか? これはまた違った問題と思われます。日本においては遠くない時期に大きな賃上げ傾向が起こってきても不思議はないと思われます。

 というのは日本においては欧州や米国と違って移民を取りませんから、本当に深刻な人手不足が生じてくる傾向が高いからです。先ほど団塊の世代が退職して、これによって賃金が大きく低下したことを指摘しました。確かに団塊の世代は一端退職したものの、その多くは現在でも退職後の再雇用で働いているケースが多いのです。もちろん賃金自体は3割近く減らされる傾向が多いのですが、現在では65歳でも昔と比べれば健康で十分若いですから通常は働くことに支障はありません。日本の生産年齢人口は2007年から2017年の10年間で8400万人から7600万人へと800万人も減少しました。団塊の世代が65歳以上になったからです。しかしながら日本の労働力人口をみると減少していないのです。これは団塊の世代が65歳を超えてきても何らかの形で働いているケースが多いからです。日本の高齢者、65歳から69歳までの労働参加率をみると44%ということでこれはG7の先進国の中でダントツのトップです。かように日本では高齢者の労働参加が人手不足を緩和させてきたわけです。ところがこの高齢者の労働参加率も65歳から69歳までの44%という数字から70歳以上となりますと、さすがに急激に低下してくるのです。現在の日本の70歳以上の労働参加率は13.7%と65歳から69歳までに比べて激減状態となります。これは70歳以上になるとさすがに働くのに様々な支障が生じるためと思われます。また女性の労働参加率も日本では急激に伸びてきて今や世界水準に近くなっているのです。因みに女性の30歳から34歳の労働参加率は73.2%でこの20年で20%もアップしているのです。そういう意味では日本の女性の労働参加率も限界点、65歳から69歳までの労働者の数も団塊の世代が70歳を超えてくるために激減する可能性が高いわけです。となると日本ではいよいよ労働人口の絶対数が足りなくなる、本格的な労働者不足、深刻な人手不足状態に突入していく可能性が高いわけです。その手前で有効求人倍率は今年5月1.49倍と23年ぶりの高水準となってきているのです。今後人手不足は極めて深刻な状態に陥っていくのは必至です。

 現在都心ではアルバイトの時給1500円時代が到来してきた、と言われてきましたが、このアルバイト、派遣などの時給はここ数年確実に上昇してきています。どうしても人が集まらなければ時給を引き上げて確保するというのは当然のことだからでしょう。この時給が上がり始めたのはアベノミクスが始まった2012年からの傾向ですが、この2012年にパートや派遣の有効求人倍率が1を超えたのでした。いろんな要因はあるでしょうが、有効求人倍率が1を超えた瞬間から時給の継続的な上昇が始まってきたことは象徴的と思われます。そして今年5月、日本では正社員の有効求人倍率もついに0.99と1に迫ってきました。1を超えて正社員の賃金上昇に弾みがつくのはこれからです。そういう意味ではいよいよ本格的な賃金上昇、日本でのインフレ時代が始まってきてもおかしくない転換点が近づいてきたと言ってもいいでしょう。

 象徴的なのは最近のヤマト運輸を巡って起こってきた様々な動きです。余りに酷い労働条件ということでヤマト運輸は社会に糾弾されました。その結果、今までの未払い残業代を支払い、労働条件を大きく緩和することを約束させられました。結果として値上げは必至という情勢です。更にヤマト運輸は1万人の新たな採用を発表したのです。ただでさえ有効求人倍率が1.49で43年ぶりの高さで人手不足が顕在化し始めたところに、どのような条件を提示して人を集めるつもりでしょうか? 常識的に考えればかなりの好条件を提示しない限り1万人もの人を採用することなどできないでしょう。必然的に実質的な賃金アップは必至と思われます。既にヤマト運輸は宅配便の値上げを表明していますが、値上げ、賃金アップという流れは日銀はじめ、日本経済が目指していたところでもあります。その流れが働き方改革にスポットが当たることで自然にやってきたようです。またこのような宅配便の値上げを意識してか、7月3日に日経新聞がまとめた国内の主要企業の<社長100人アンケート>では自社の製品の値上げについて3割が前向きという回答となってきました。理由として原材料費の上昇、運送・流通コストの上昇、人件費の上昇を上げ、また国内の景気拡大に自信を深めていて値上げを打ち出しやすい環境下にあるとの経営判断もあるようです。

 かようにみていくと確かに世界的傾向で、賃金が上がりづらくなっていて、その傾向は変わらず労働者の二極化が起こっているのは事実ですが、一方で日本の場合は米欧に比べて極端に人手不足の状態になってきていて、それが深刻さを増してきていて、本格的な賃上げが起こってもおかしくない状況下にあることが伺われます。確かにIT化、AIの発展、労働者の分断化、賃金の<上方硬直性>など様々な問題はあり、賃金が昔に比べて上がりにくくなっている現実はあります。しかし実際に人が足りなくて、人を確保するためには条件を良くして、賃上げして確保していくしかないという現実もあります。そして日本は極めて深刻な人手不足に陥ってきたことは誰もが感じていることでしょう。賃金が上がらない、デフレが永遠に続くとは思えません。すぐに賃金の激しい上昇と共にインフレ率が上昇するとは思えませんが、日本の水面下では激しい賃上げへの動きやインフレの芽がくすぶってきていることを認識する必要があります。永遠のデフレはありません。何処かで突如臨界点がきてもおかしくないのです。

<平成>の時代が来年に終わります。そして2020年にはいよいよ東京でオリンピックが開催されます。<平成の時代>はまさに<平穏な時代>だったのですが、いよいよ年号の変化と共に激動の時代が幕開けしそうです。

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